新発見 東かがわ市・さぬき市の歴史3 ~東かがわ市の豪族の墓 岡前地神社古墳~

平成28年(2016)、東かがわ市湊にある岡前地神社の石祠背後のマウンド状の頂上から整形された白い石が一部顔をのぞかせた。それは古墳時代の豪族の棺(ひつぎ)である刳抜式石棺(くりぬきしきせっかん)であった。

岡前地神社古墳の刳抜式石棺

現代人は亡くなると木棺に納められるが、古墳時代の豪族は石棺だった。石材は凝灰岩(ぎょうかいがん)という火山灰のかたまった柔らかい石が使用されることが多い。身と蓋を組み合わせると円柱形になり、身の上面の遺体を納めるスペースとそれに対する蓋の下面の両方を長楕円形または長方形に刳り抜いているため、刳抜式石棺と呼ばれている。

刳抜式石棺は全ての豪族が採用しているわけではない。香川県では古墳時代前半期に多く、また、豪族の中でもより権力を持つ者だけの特権であった。それが今回東かがわ市で発見されたということは、東かがわ市に大きな権力を有する豪族がいたことになる。

東かがわ市・さぬき市内で刳抜式石棺の発見されている古墳を見ると、さぬき市津田町のみに集中し、5例が発見されている。津田町に分布する豪族の墓は津田古墳群と呼ばれており、古墳時代の初めから古墳時代中期初頭までの約150年間、代々古墳が築造された。そして、この津田古墳群は古墳時代中期初頭に突如として終焉する。そして、津田古墳群と入れ替わるかのように古墳時代中期初頭に出現するのがさぬき市大川町にある四国最大の古墳、富田茶臼山古墳であった。四国最大の古墳がさぬき市に残されている背景には津田古墳群から富田茶臼山古墳への歴史的な流れがあった。

こうした中、東かがわ市で新たに刳抜式石棺が発見されたのである。平成28年から3ヵ年にわたって発掘調査が実施された。

まず、刳抜式石棺。最初に発見されたのは蓋であった。下に身の存在が予測されたが、残されてはいなかった。身は後の時代の人々によって持ち去られたのだろう。石棺の石はさぬき市津田町と大川町の境にある火山(ひやま)で採石された火山石と判明した。実は津田古墳群の刳抜式石棺の石材も全てこの火山石である。次に形の特徴からは古墳時代中期の年代が想定された。津田古墳群の刳抜式石棺の年代は全て古墳時代前期であり、火山石の刳抜式石棺としては最も新しいことが判明した。そうなると、古墳時代中期の富田茶臼山古墳との関係が俄然注目される。ただし、富田茶臼山古墳は石棺の有無は現在のところ明らかになっていない。

次に石棺の周辺からは埴輪片が出土した。埴輪片は円筒埴輪と呼ばれる種類で、形の特徴から年代は古墳時代中期頃と考えられる。この年代は刳抜式石棺の年代とも符合する。こうして石棺のある場所は古墳であることが判明し、新たに岡前地神社古墳と命名された。

岡前地神社の周辺は耕地開発によって山の自然地形は大きく改変され、見た目では古墳の形や規模ははっきりとしない。ただ、昭和20年代の空中写真を見ると、おぼろげながら前方後円墳の形をしているのがわかる。測量調査を実施し墳丘の検討を行った結果、全長90m台の古墳となる可能性が高まった。四国最大の古墳の富田茶臼山古墳が全長139mである。それに次ぐ全長98.8mの丸亀市快天山古墳、全長約96mの高松市猫塚古墳クラスの、香川県内でも上位5位に入る大規模な古墳となる可能性が高まったのである。

ただ、発掘調査では後世の改変があまりにも大きく、古墳の形・規模を解明するまでには至らず、解明は将来の課題となった。

調査では発掘調査の他に過去の記録を捜索した。過去には古墳として認識されており、前方後円墳であることが昭和10年の論文ですでに発表されていた。また、周辺にはかつては複数の古墳があったようである。そうなると岡前地神社古墳1基のみではなく、津田古墳群のように豪族が代々古墳を築造していた可能性もある。

岡前地神社古墳の築造されている丘陵は北には海が近い。古墳が海の近くにある点は津田古墳群と共通している。岡前地神社古墳に葬られている豪族は津田古墳群の豪族、そして富田茶臼山古墳の豪族とどのような関係にあったのだろうか。謎解きはまだまだこれからである。

岡前地神社と刳抜式石棺出土地
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