新発見 東かがわ市・さぬき市の歴史20 ~古代の地方官人の墓か? さぬき市大川町南川、黍谷の火葬墓~
現代人は多くが亡くなると火葬にします。歴史を振り返ると火葬にした時代、土葬にした時代、様々な時代がありました。また、身分により埋葬方法が異なるのも様々な時代で見られます。
文献記録にある最初の火葬は飛鳥時代の僧である道昭で西暦700年のことです。そしてその3年後の703年に持統天皇が天皇として初めて火葬されます。それ以降、火葬は皇室、有力官人の間で普及していきます。そして、地方では郡司など地方官人が中央にならい火葬を採用していきます。
さぬき市大川町南川は丘陵に挟まれた谷部になりますが、この谷奥近くの黍谷地区で昭和49年に火葬墓が発見されました。発見された場所は丘陵尾根の斜面で区画整理事業の工事中に重機で掘削中に出土しました。壺、銅の碗、内面を黒色にした土器の鉢が発見されましたが、壺は割れて破片が散乱していたようです。その壺の中に火葬にした人骨が充満していたようです。
銅の碗は完形で壺の蓋にしていたと推測されています。香川県内でこの時代に銅の碗が出土するのは大変珍しいのですが、さらに内面には和紙が貼り付けられ文字が墨書されていました。このような事例は全国的にも類を見ません。文字は現在もなお判読できていませんが、9文字程度が考えられ、「稲伍仟」の3字ははっきりと読み取れます。内容は今後の課題ですが、この時代一般人にはまだ文字文化が十分には普及していなかったので、埋葬された人物は地方の有力者、郡司クラスの人物であったと推測されます。この谷奥の場所にどうして地方の有力者が埋葬されたのか。これも興味深い謎です。
火葬墓の築かれた年代は、火葬骨の入っていた壺が手がかりになります。この壺は破損していましたが、現在は復元し、さぬき市歴史民俗資料館で展示しています。灰色の素焼きの壺ですが、諸特徴から現在の愛知県で作られた灰釉陶器(かいゆうとうき)であることがわかります。このような遠方の製品を入手できる点も被葬者が有力者であったことをうかがわせます。その年代は9世紀後半、平安時代前半と考えられます。黍谷の火葬墓はさぬき市の古代史を明らかにする上で貴重な資料といえます。

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